◆ アルコホーリクス・アノニマス
私は20年近く、アルコール依存症者の回復に携わってきました。
一杯飲めば自分を苦しめるばかりか、周囲の人たちを巻き込むことが分かっていながら、その最初の一杯から延々と続く連続飲酒をやめられないアルコール依存症者の回復をお手伝いする仕事です。具体的には、アルコホーリクス・アノニマス(AA)という団体の日本事務局で、飲酒をやめ続けることに役立つ文献や、AAの運営に関する資料を翻訳出版したり、広報したり、各地に講演に行ったりすることが主な仕事でした。もちろん、日常業務の中では当然のことながら、アルコール依存症の当事者、その家族、友人、職場の人たち、医療援助者などから相談の電話がひっきりなしに入ります。
◆ 飲酒によって生じた現実を突きつける
そんなときの対応はとても難しいものです。今回翻訳した『ママと踊ったワルツ』のなかでも何箇所か出てきましたが、本人のなかに"飲酒をやめたい"という気持ちが生まれない限り、誰も本人から酒を取り上げることができないからです。たとえ閉鎖病棟に入院させても、運動の時間に庭から梅を拾ってきて発酵させ、自分で酒を作ってしまったり、ヘアートニックを酒代わりに飲んでしまったり、なんてことは、アルコール依存症者にとっては、朝飯前のことなので、本人の目の前から家庭が酒を隠しても、何にもなりません。
だから、家族や周囲の人たちは本人の飲酒には一切かかわらず、飲酒で本人がどんな事故や問題を起こそうが、一切肩代わりをせず、飲酒によって生じた現実を本人に突きつける必要があります。でも家族にしてみたら、本人が人様に迷惑をかけているのに、知らん振りをするわけにいかないのは、特に日本の社会では当然のことでしょう。したがって、よほどの事態にならない限り、家族にそれを実行するよう強いるのは難しいのです。また、本書にも出てきましたが、本人の記憶が完全に欠落している場合があるので、現実に何を仕出かしたのかを示されても、本人は家族に苛められているとしか受け取らないこともあります。それで家族もだんだん混乱に陥り、何が正常なのかが分からなくなっていきます。
◆ 家庭崩壊と失業:アルコール依存症は病気
したがって残念なことに、日本で回復につながるアルコール依存症者の大半は、家族崩壊や失業のために生活がたちゆかなくなって、やっと助けを求めてくるのが現状です。
アメリカでは、アルコール依存症そのものが病気であり、本人の意思が弱く、性格的にだらしがないからかかる病気ではないこと、さらに、回復が可能であることが、公共放送などを通して一般に広報されています(とはいえ、人々の心の中の偏見までは変えられないことが、本書を読んで分かりましたが)。それは、AAでの回復の力と、政治家や各界の著名人たちが、自分がアルコール依存症であることを『カミングアウト』し、政治や社会を変えていったためでもあります。飲酒運転で捕まると、刑務所に入るか、AAに行くかの選択が迫られるのは、罰を与えても犯罪者から飲酒欲求が消えるわけではなく、根本的な回復が必要であることが理解されているからです。
◆ AAのお酒のやめさせ方とAAミーティング
さて、そのAAですが、AAでのお酒のやめ方というのはとてもユニークで、今日一日だけ酒に手を出さない、という方法を取ります(この方法についても本書で何回か出てきました)。ふつうは、来年から禁煙するぞ、とか、夏が来る前にダイエットをするわ、とか決心し、結局実行がのびのびになってしまうものですが、AAのやり方は、明日はどうであ今この瞬間から早速最初の一杯に手をつけないということから始めます。翌日になったら、また新たな今日一日を始めます。そしてその今日一日を飲まないために出かけて行くところが、世界中各地で行われているAAミーティングです。お酒をやめたい人なら名前も職業も明かさず、会費もなく出席できるAAミーティングのことは、アメリカのミステリー小説などでは、かなりお馴染みになっています。たとえば、ローレンス・ブロックのミステリー、マシュー・スカダー・シリーズでは、アル中探偵マシューが、時間がぽっかり空くと、教会の地下室で開かれているAAミーティングに出かける場面がよく出てきます。何しろマンハッタン地区だけでも午前7時30分から夜中の2時ぐらいまで、1週間に1000回近いAAのミーティングが各所で行われているのですから。そしてミーティング以外の時間でも個人的にいろいろな相談に乗ってもらえる仲間のメンバーのことをスポンサーと呼びます。マシュー・スカダーのスポンサーは何巻目かで殺されてしまいましたが、このスポンサーも、アメリカの小説ではよく登場します。また、先日、ロバート・B.パーカーの小説を読んでいたら、いきなり「ビルのおともだちね」というせりふが出てきましたが、たぶん、読者は何のことだか分からなかったと思います。この、"A
friend of Bill"のビルは、AAの創始者の一人ビル・ウィルソンのことで、これはビルの仲間、つまり、AAメンバーのことを指します。一般の人たちのなかで、自分がAAメンバーであることをそっと誰かに知らせるときなど、この表現が使われています。
◆ 女性とアディクション
AAでは本名や住所を明かさなくてもメンバーになれるため、女性たちが参加しやすいので、日本全国、女性メンバーがかなりたくさんいます。特に20代だと、男女比は5対4、30代では2対1強です(全体的には2割強なのですが)。このように、たくさんの女性たちが徐々に回復の道にたどり着いていることはうれしい限りです。本書で何度も繰り返され書かれているように、家庭をもち、子どもを生んだ女性が飲み続けていたら、その子どもたちが影響を受け、育児放棄や虐待が繰り返されることは必至だからです。
アルコールや薬物に限らず、仕事、ギャンブル、虐待、児童への性的虐待なども、アディクションと呼ばれ、アルコール依存症と同じメカニズムで、その欲求に囚われると、ほかの大切なことが何も見えなくなり、それをやり続けなければいられない病気だと言われるようになりました。でもまだまだ親の無責任さや異常性格といったところに目が向けられ、根本的な対策への動きがなかなか始まらないのは歯がゆい限りです。とはいえ、今のこの時間にも、親のアディクションのために翻弄され、あるいは虐待を受けている娘たちや幼い子どもたちがいて、心に深い傷を負っているはずです。また、子どもを愛したいと思っているのに、強い飲酒欲求のために酒を優先させなければならず、苦しんでいるアルコール依存症の母親もたくさんいるはずです。その対策には、それぞれの専門援助機関が、それぞれの機関でできる援助の方法を探っていることでしょう。私は、翻訳書を通して、誰にも悩みを打ち明けられず、人知れず苦しんでいる人たちに役立つ活動をしていくことが、この分野に足を突っ込み、実態を知ってしまった者の責任なのだろうと考えるようになりました。
◆ BUPSTを卒業して
「もうこの分野はうんざり、別のことをしてみたい」という思いでBUPSTの入学を目指したのに、そのとき院のカウンセラーは「自分の専門分野を深めろ」というアドバイスをしたのです。心の底で、「もう勘弁して!」と思ったものでした。でも他の人たちにはない知識を持っている自分がその知識を精一杯生かさなかったら、もったいないではないか、という気持ちがだんだん大きくなってきました。そして今回『ママと踊ったワルツ』を上梓したとき、出版社の編集担当者から、あなたならではの翻訳文でしたね、と言われ、それで良かったのだとしみじみ思いました。
本書は、特に段階の世代の女性たちには時代背景が共通しており、著者たちが子どもの頃見ていたホームドラマも、私たちと共通していて、とても身近に感じられる内容なのですが、残念なのは活字の大きさです。本の価格を上げないため、ページ数を抑えたので、活字のポイントを小さくせざるを得ませんでした。それが裏目に出て、老眼の世代の読者からクレームが届いています。このような問題は事前には分かりませんでした。
けれどもこれからも、心に傷を負った人たちが共感でき、元気になれる本を見つけて訳したいと思っているのですが、日々の翻訳の仕事に追われ、なかなか余裕がないのが残念です。
この本は翻訳家としての山本さんとアルコール依存症とかかわりを持ち続けてきた人間としてのもう一人の山本さんの融合の結果で、まさに新しい始まりを予感します。間違いなく彼女ほど、アルコール依存症を全人格的に受け止めている人にとっては、それを語るだけでも苦痛になる時期があるのかもしれません。
その苦しみの中から気負いもない本当に癒しの物語として訳された山本さんの翻訳力は高い評価を受けることでしょう。
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