NEW!世界を混迷から救うカギは翻訳にあり!(1)

第1回 近代社会の基礎は翻訳が作った

施 光恒(せ・てるひさ)
九州大学大学院比較社会文化研究院准教授法学博士

 昨年の英国のEU離脱の国民投票の決定、米国大統領選でのトランプ大統領の選出は、世界中の人々を驚かせました。多くの新聞や報道番組の予測もはずれました。
 日本でもそうですが、世界の多くの識者は、これらの事態を指して「孤立主義」「排外主義」「ポピュリズム(大衆迎合主義)」の台頭だと懸念しました。識者の心のうちには、グローバル化こそ、人類の歴史の進歩であり、また宿命であるという見方が根強くあるからです。また、自由で平和で安定した社会、経済的に豊かな社会をもたらすものだと信じているからです。
 グローバル化とは、ひと言でいえば、国境の垣根を低くし、ヒト・モノ・カネ・サービスの動きを活発化させる現象だと述べることができます。近年の世界では、グローバル化こそ良いものだと信じられ、これを促進するために、政治経済やその他の制度の世界共通化(ユニバーサル化)が図られてきました。例えば、経済では、アメリカ型の株主の力が強い資本主義制度が日本を含む世界中で導入されてきました。文化面では、最近は日本でも顕著ですが、ビジネスや学問の言葉として「世界共通語」である英語を使うようにしようという動きが強くなっています。
 しかし本当にグローバル化とは良いものなのでしょうか。世界の現状を見る限り、グローバル化こそ進歩であり、また自由で安定した社会をもたらすという想定は当たっていません。例えば、ここ数か月を振り返るだけでも、英国のロンドン橋(6月3日)、マンチェスター(5月22日)、フランス・パリのシャンゼリゼ通り(4月20日)、ドイツのドルトムント(4月17日)と欧州各地域で移民問題が大きな要因となったテロが頻発しています。また先進各国の経済的格差は、グローバル化が本格化した1980年代以降、極めて大きくなりました。フランスの経済学者ピケティが指摘したように、米国の経済的格差は戦前の大恐慌の時期よりも大きく、統計を取り始めて以来、最もひどいものとなっています。英国の経済学者ハジュン・チャンによれば、途上国の経済成長率も、グローバル化の開始以後それ以前と比べて低下しています。
 フランスの歴史人口学者エマニュエル・トッドは、近年の時事的論説やインタビューで「グローバル化疲れ」という言葉をしばしば用いています。トッドによれば、先進諸国の多くの庶民は、1980年代から続くグローバル化の流れがもたらした格差拡大、移民の急激な増加、民主主義の機能不全、グローバル・エリートの身勝手さなどに辟易し、疲れ切っています。昨年の英国のEU離脱や米国大統領選挙におけるトランプ現象の背後にあるのは「グローバル化疲れ」だと指摘します。
 では、現在のグローバル化の流れを是正し、多くの人々が安定した豊かな社会で暮らせるようにするにはどうすればよいのでしょうか。私は、この点を考えるときのカギとなるのが、「翻訳」だと思います。翻訳という行為には、現在のグローバル化よりもずっと良い世界を構想するための様々なヒントが含まれています。
 今回と次回の私のコラムでは、このヒントについてお話しします。今回は西欧の近代化の歴史、次回は明治日本の経験について触れながら、現行のグローバル化の見方の背後にある誤りを明らかにします。そして、よりよき世界のあり方を考えるうえで、翻訳に注目する必要性について論じてみたいと思います。

●グローバル化こそ進歩?

 グローバル化はテロリズムや格差拡大などさまざまな問題を生じさせています。にもかかわらずグローバル化を推進しようという声がいっこうに小さくならないのはなぜでしょうか。大きな理由の一つは、グローバル化こそ人類社会の進歩であり、歴史の必然なのだという思い込みを多くの人が抱いていることが指摘できます。
皆さんも、よくご自身の周りで次のような見解をお聞きになるのではないでしょうか。「グローバル化は時代の流れであり、この流れから取り残されるわけにはいかない」、「グローバル化こそ時代の趨勢なのだから、国なんかにこだわるべきではない」といった見解です。
これらを整理しますと、多くの現代人が、半ば無意識に、次のような一種の法則じみた歴史の見方を共有していると言えるでしょう。「人間社会の進歩とは、土地に根差した身近で小さな社会(村落社会)が、国(国民国家)を経て、だんだんと大きくグローバルな普遍的社会へと統合されていくことだ」というものです。ここで「普遍的」とは「ユニバーサル」、つまり「世界共通の」という意味です。
図式化すると次のような「歴史の流れ」ですね。

「村落社会 → 国 → (EUや東アジア共同体のような)地域統合体 → グローバルな枠組み(グローバル市場やグローバル・ガバナンス)」

身近で土地に根差した土着の社会から、より大きな世界共通の社会へと向かう流れ、いわば「土着から普遍へ」向かう一方向的な発展過程の想定です。そして現在は、「国」から「地域統合体」への過渡期に当たるというわけです。この流れに伴って、各地域のルールや制度、言語といったものも、より共通のもの、よりユニバーサルなものに近づいていくと考えられます。
このような「時代の流れ」観、つまり歴史観が背後にあるので、多くの人が、グローバル化こそ進歩であると考え、グローバル化に賛成してしまうのです。賛成しないとしても「時代の流れだからしょうがない」と考えてしまうのです。

●西欧の近代社会の成立と翻訳

「グローバル化こそ時代の流れであり、進歩だ」というこの想定ですが、実はとても一面的です。たとえば、これまでの世界の歴史のなかで最も大きな「進歩」だったとされる西欧の近代化の過程をみても、必ずしも「土着から普遍へ」と単純には描けません。
「世界史」の時間に習ったことを思い出してみてください。世界史の時間に、西欧の近代化のはじまりを告げたものとして「宗教改革」が出てきました。宗教改革を特徴づけたのは聖書の翻訳だったとも習います。私も、高校時代にそのように習ったのですが、当時は聖書翻訳がなぜ重要だったのかあまりピンときませんでした。ですが、これ、とても重要だったのですね。
中世の欧州では、ラテン語が「普遍語」、つまり世界共通のユニバーサルな言語だと認識されていました。貴族や聖職者、学者などの特権的なエリート層は、公式の言語としてラテン語を用いていました。聖書は主にラテン語で書かれ、教会の儀式もラテン語で行われていました。大学では哲学などの学問も、ラテン語で記述され、論じられていました。
しかし各地の大多数の一般庶民は、ラテン語がわかりませんでした。当時の人口全体から見ればラテン語を自在に用いることができるのは、ごく少数のエリート層だけでした。大多数の庶民層は、ラテン語を学ぶ機会はなく、各地域の「土着語」を用いて日常生活を送っていました。当時の土着語は、日常の話し言葉でしかありませんでした。抽象的で知的な事柄を表現できる豊かな語彙はありませんでしたし、文法や正書法(正しい書き方のルール)も定まっておらず、緻密な知的議論や論述には向かないと考えられていました。
一般庶民は、ラテン語がわからなかったため、信仰のよりどころであるはずの聖書も自分では読むことができませんでした。学問に関しても、哲学や自然科学、法律、歴史などの学問の成果に触れられず、知的な思考や議論を繰り広げることもできません。庶民が自らの能力を磨き、発揮することはほぼ不可能だったのです。
こういう状況のなか、宗教改革では、マルティン・ルターやウィリアム・ティンダルらは、聖書を、庶民が日常生活の場で用いている土着語に翻訳しました。現在のドイツ語や英語のもととなった言葉に訳したのです。
哲学の世界でも同じようなことが起こりました。西欧では中世の哲学は、ほとんどラテン語で記されていました。ですが近代に入ると、哲学は日常生活の言葉である土着語で書かれ、論じられるようになりました。
近代哲学の幕開けとなった、「われ思う、ゆえにわれあり」で著名なデカルトの『方法序説』は、フランス語で書かれた最初の哲学書だといわれています。デカルト以降、近代の哲学者は、ラテン語ではなく、日常生活の言葉である各地域の言語で書くようになりました。ホッブズは英語、ヴォルテールはフランス語、カントはドイツ語でそれぞれ書いたのです。哲学以外の学問も、それぞれの国の言葉で論じられるようになっていきます。
聖書の翻訳が行われたことや、学問がラテン語ではなく各国語で行われるようになったことには、とても大きな意味がありました。近代以前の西欧世界では、宗教や学問は、いわば「ラテン語派」とでもいうべき当時のグローバルな特権的エリート階級に牛耳られていましたが、近代以降は各国の日常生活の言葉で宗教や学問が論じられるようになりました。こうなると各国の一般庶民にとって格段に学びやすくなります。庶民の知的世界はずっと広がりました。聖書や学問的な書物が各国の日常生活の言語で記されるようになったため、一般庶民でも、少し努力すれば、当時の多種多様な知識に触れられるようになったのです。
言語の側からみれば、ラテン語、あるいはギリシャ語やヘブライ語の語彙が各国の言葉に翻訳され、取り入れられるようになり、各国の言葉は充実していきます。近代になると、法律もそれぞれの国の言葉で書かれ、社会制度も各国語で運営されるようになりました。
近代社会が成立したのは、「翻訳」の力が大きかったのです。「翻訳」によって、普通の人々が、外来の多様な古今の知識に触れ、それを学び、能力を磨き、発揮しやすい社会空間が各国に成立しました。中世の世界では、ごく少数のエリートである「ラテン語派」の者たちしか専門的知識を学べなかったため、多数の庶民は自分の知的能力を磨くことができず、社会参加しにくかったのです。しかし近代以降は、「翻訳」を通じて、多くの庶民が、それぞれの国にできた、それぞれの国の言語で動く社会に参加し、能力を磨き、活躍できるようになりました。
それまで社会から排除されていた多数の庶民が、さまざまな新しい知識に触れ、能力を磨き、発揮できるようになったことは、社会に大きな活力をもたらしました。「近代化」というのは、それまでよりも圧倒的に多くの人々が社会参加するようになり、彼らの力が各国の社会空間に結集されるようになって生じたものだといえます。いわば庶民の力の結集こそ、各国に近代化をもたらしたエネルギーであり、そうした社会への扉を開いたのは翻訳というカギだったのです。

●「グローバル化」史観のおかしさ

 このように見てくると、現在のグローバル化の前提にある歴史の見方はおかしいことに気づきます。グローバル化推進派の人々が前提しているような「土着から普遍へ」と向かう流れこそ進歩だという見方は、少なくとも非常に一面的です。
西欧の近代社会の成立とは、「普遍的な言語」(ラテン語)で書かれた先端の知識を、各々の地域の言語に翻訳し、身近な土着の文化に取り込んでいくなかで、つまり、いわば「翻訳と土着化」を行っていくなかで生じてきました。ですので、近代化のプロセスとは、「土着から普遍へ」というよりも、むしろ「普遍から(複数の)土着へ」という流れだとみるほうが適切なのです。翻訳と土着化の作業を通じて、各国の多数の人々にとってなじみやすく、また自分たちの能力を磨き、発揮しやすい環境を整備したことが活力ある近代社会の成立を可能にしたのです。
 このように考えると、現在のグローバル化の流れが世界の人々に幸福をもたらすものなのか大いに疑わしくなります。現在のグローバル化のもとでは、冒頭で触れたように、多くの国々で格差が非常に拡大しています。その結果、社会に十分に参加し、能力を磨き、発揮していけるような恵まれた立場にある人々は少なくなっています。グローバル化は、進歩どころか退行なのかもしれません。
 次回のコラムでは、明治日本の近代化の経験を参照しつつ、より良き世界の実現と翻訳の意義についてさらに考えてみたいと思います。

施 光恒(せ・てるひさ)

1971年生まれ。九州大学大学院比較社会文化研究院准教授(政治学)。
英国シェフィールド大学大学院、慶應義塾大学大学院などで学ぶ。博士(法学)。
著書に『英語化は愚民化』(集英社新書、2015年)など。